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●北天の巨像●

岩手県花巻市から東へ約八キロの北上山地にかかった丘陵部の項近くに、南面して一つのお堂があり、堂内(理在は堂義の収蔵庫内)に天を衝くような木の巨像が祀られている。兜跋毘沙門天と称し、高さ四メートルにも及ぶその像は、独特の愛らしさを持つ女性の神様の両掌の上らてんによに聳え立つ。女性は地天女と言う大地の神、地母神(mother goddes)である。地天女の両脇には、これもまた愛敬のある姿をした二体の鬼、(尼)藍婆・毘藍婆が正坐をし偉いている(図?)。
東北の部びた山中で初めてこの成鳥毘沙門堂の像に出合った人は、誰もがその迫力に圧倒され驚かされるであろう。都会(中央)の洗練された仏像には見られない力強さが存在する。かつてこの地に蝦夷征伐で赴いた坂上田村麻呂の姿を投影させて考える人も多い。確かに、毘沙門天(Vaisravana)とは仏教の四天王のうち北方を守護する多聞天が独尊で信仰された呼び名であり、北方鎮護の軍神である。
しかし、この成島・兜跋毘沙門天像の魅力は、家と、身に甲を撮った堂々たる体躯から醸し出す夷てき秋を打ち負かすイメージとともに、地天女に嗣な象徴される東北固有の大地に根付いた「部」のイメージが挙げられる。むしろ私は後者の方に強く魅かれる。この像の地天女や二鬼の姿は、私たちが一般に見慣れた毘沙門天に踏み負かされた格好の邪鬼ではなく、同じく岩手県天台寺に伝わる木彫仏(図?)とともに後世の「オシラサマ」や「コケシ」に通じる東北土着の神を患像させ、その上にすっくと立つ兜跋見沙門天は、まさにこの地方の山の神といっても均高ではない。実際、兜跡毘沙門天とは地天に捧げられた毘沙門天の日本での呼称であるが、中国や日本に伝わった初期の段階の毘沙門天像の多くはこのスタイル(トバツ形)をとる。兜跋毘沙門天像の本質は、東寺の兜跋毘沙門天像に見られる異国の来訪神(マレビト)の姿で表された戦勝神(武神)もしくは財宝神(福神)である毘沙門天を、在地の地母神が捧げ上げるところに存在し、言わばららがみはがみ外なる父神を内なる母神が助け上げる「愛の構図」である。そして、この内外二つの神が合体、習合したところに新たな神の像が創造される。それこそまさに山の神であり、サイノ神寒の何岐神)なのである。N・ナウマンは高著『山の神』の中で山の神と道祖神(サイノカミ)の類似性を指摘し(注(1))、また、中沢新一氏は道祖神を、内/外、地下/地上、死の領域/生の領域などの空間的、時間的な中間に位置する境界性的、両義性的な神と見做している(往(2))。ある意味でそれはギリシア・ローマのヘルメス・メルクリウス神(図?)に通じるイメージである。現存する最東端(最北端でらあるが)の成島・兜跋毘沙門天像は、このような意味で遠く西方に起源を発し、インドや中央アジアから中国を経て流転した兜跋毘沙門天の最も根源的なサイノ神としてのイメージが再生された像と言えよう。
?岩手県天台寺吉得天立像

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?ギリシア跋壷絵ヘルメス像

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●激論・兜政見沙門天●

現在、日本には破損仏を含めおそらく百体近くの兜跋毘沙門天像が残っていると思われる。これらは、服制の面から大きく二つの種

 

 

 

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